Mag-log in東京・銀座。十一月の夜風が、街の照明をすり抜けて頬を撫でる。
ビルの前に車が止まり、後部座席のドアが静かに開いた。「──着いたわよ、朱音」
先に降りた
Dは、老舗ブランドでさえ一目置くイメージコンサルタントだ。
七年前、壊れた私を最初に拾ってくれた人で── いまの外見も、評判も、ここまで積み上げてきた道のりも、全部、Dが作ってくれたものだ。知っている。
マーケティング会社リュエールの裏側で、静かに私を押し上げ続けてきた黒幕が、他でもないDだということを。今日のDは親友でも恋人でもなく、私の復讐を完璧に遂行するための共犯者の顔をしていた。
「行くわよ。最初の一手、もう整えてある。晴紀の会社の弱点も、社内の派閥も、すべて手に入れた情報通りに動くわ」
手先から足先まで意識を巡らせて車を降りると、通りかかったサラリーマンが思わず振り返った。
それを横目に見ながら、私は静かにDの手を取った。ふと、ビルのガラス壁に映った自分の姿が目に入る。
黒のスラックスに、深いボルドーのシルクブラウス。
街灯の光に照らされて、輪郭が静かに引き締まる。 線の甘さが消え、七年前の少女とはまるで別の──磨かれた女。(この人が、私をここまで連れてきた)
「……どう?」
私は少し笑う。「綺麗よ。完璧。
──で、本当にやる気なのよね」D の声は冷静で、どこか甘い。
心配しているのか、楽しんでいるのか、判別がつかない。「やる。迷わない」
一歩だけ近づくと、D は妖艶に──けれどどこか楽しげに微笑んだ。
「それでこそよ。——さぁ、行きましょう」
「……ありがとう」
(──七年前より、ずっと強い)
その笑みをごく自然に消し、重いガラス扉へ手を添えた。
今夜は、七年前の続きを奪い返す夜だった。
今日の相手は、老舗和菓子屋 清晴堂。
コラボ商談のために、私は担当者を待っていた。 約束の時間より五分早く、商談室の扉を開けた。空気が、一瞬だけ凍った。
向かいの席に座る男が、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が私に触れた瞬間、晴紀の目が、わずかに大きく開いた。
息をひとつ飲む気配。
瞬きを忘れたような、短い沈黙。(……今、見惚れた?)
胸の奥が、かすかに揺れる。
でも、すぐに押し殺した。ダークネイビーのスーツ。
寡黙な色のネクタイ。 昔と変わらない、少し影を引く横顔。時間が、七年前へ引き戻そうと手を伸ばしてくる。
(……覚悟してた。でも、本当に来るなんて)
胸の奥が一瞬だけ波立ったが、私は完璧に押し殺す。
「本日はよろしくお願いします。リュエール マーケティング部の朝倉です。この案件は、部長として私が直接担当します。」
名刺を差し出すと、晴紀はわずかに間を置いて受け取った。
「……部長、ですか。こちらこそ。清晴堂の……清水晴紀です」
声は落ち着いているのに、ほんの少しだけ揺れた。
私は席に着き、静かに資料を広げた。
ページをめくる動きひとつ乱れない。 数字の列に指を添えながら、淡々と説明を進めていく。晴紀は真剣に聞いている──けれど、返事をする前にふっと視線をそらした。
(こんなふうに目をそらす人じゃなかったのに)
(私の顔、見れないんだ)気づかれないように胸の奥で笑う。
「…………以上が、御社の数字を立て直すためのブランド刷新の戦略案です。質疑はありますか?」
最後のスライドをめくったところで、沈黙が落ちた。
晴紀は、手元の書類を一度閉じる。「……朱音。いや、朝倉さん。少し……話せるか」
その一拍の乱れに、私の心臓が小さく脈打つ。
「ここでは話しにくい。屋上で、どう?」
私はほんの一拍だけ目を落とし、それから無言で頷いた。
***
屋上に出ると、夜風がスーツの布を静かに揺らした。
ビルの灯りがぼやけ、空との境界が曖昧になる。晴紀は、ポケットに指を入れ──何かを取り出しかけてやめた。
その仕草だけで、胸の奥にひやりと温度差が走る。(……昔から変わらない。普段はよくしゃべるくせに、たいせつな話になると急に黙ってしまう)
あの炊き出しの夜もそうだった。
叱られて戸惑いながら、何か言いかけて結局言えなくて── でもその不器用な沈黙が、なぜかやさしく胸に残った。(あれが、最初に惹かれたところ……だった)
今は憎しみで塗りつぶしたはずなのに、
その一瞬の沈黙だけが、まだ胸の奥をわずかに鳴らす。気づかないふりをして、私は視線を上げた。
「それで?」
彼は、言葉を探すみたいに小さく息を吸った。
「……あの日のこと、謝りたかった」
(謝罪だけで、戻ると思わないで)
私はまぶたひとつ動かさない。
「謝るだけなら、もっと早くできたはずよ」
晴紀の肩が、かすかに揺れた。
「朱音、俺は──」
「やめて。言い訳なんて聞く気ない」
自分でもわかるほど、刃みたいな声だった。
一瞬、呼吸を整えるように目を閉じる。「私がこの七年、あなたを憎むことでしか自分を保てなかったのは知ってる?
おかげで、私はもう、あのときの待ってるだけの子どもじゃないわ」晴紀の表情が強張る。その顔を見て、私の心臓がひとつだけ高鳴る。
怒りか、痛みか、あるいは名前のつかない別のものか── 自分自身にも、もうよくわからなかった。(……でも、もう戻らない)
(これは復讐。私のためのもの)「仕事の話は進めるわ。うちにもメリットがあるもの」
私は踵を返し、扉へ向かった。
閉まりかけた扉の前で、振り返らずに言う。
「七年前のあなたの選択。──利息だけじゃ足りないわよ?」
背後で、晴紀がわずかに息を飲む気配がした。
(そうよ……あなたはまだ知らない。
これから何を支払うことになるのか)カチリ、と扉が閉まる。
その静かな音が胸の奥に落ちて、
ほんのわずかに痛んだことだけは── 私だけの秘密にした。***
──けれどあの夜の真相を、朱音はまだ知らなかった。
朱音が壊れたあの瞬間、晴紀もまた、別の地獄に落ちていたことを。あの日──誕生日の夜。
朱音が去ったあと、テーブルには静けさだけが残った。
晴紀は水を一口飲み、何気ないふうで立ち上がる。
店の隅──ゴミ箱へ視線を落とす。革のメモ帳が、破れた包装紙の上に沈んでいた。
誰も見ていないのを確かめてから、晴紀はそっと手を伸ばし、
メモ帳だけを拾い上げる。汚れを指で軽く払う。そして、静かに革表紙をめくった。中に挟まれた一枚の紙。
そこには、「どうか──自分の晴れを、誰かのために使える人でありますように」と、
あの日と変わらない、朱音のきれいな文字が丁寧に綴られていた。晴紀のまつげが、ほんのわずかに震えた。
(……そういえば、あの日も)
被災地の炊き出しで、おにぎりに文句を言った自分を、
朱音はためらいなく叱った。「ここホテルじゃないんだけど。もてなしてもらいに来たわけ?」
あんなふうに真っすぐ言われたのは初めてだった。
実家は老舗。
味が落ちれば職人が責められ、 粗相があれば「跡取りに不快な思いをさせるな」と周囲が先に頭を下げる。 叱られるべき場面でも、誰かが必ず先に庇ってくれた。だからこそ──あの時の朱音の一言は、胸の奥の重たい何かを一瞬だけ剥がした。
驚いたのに、なぜかふっと軽くなったのを覚えている。
あの日が初めてだった。
ひとりの人間としてまっすぐ向き合われたのは。(……あれが、始まりだったんだ)
(なのに)「……子どもかよ」
本当は、その純粋さが好きだった。
それなのに、傷つける方を選んでしまった。晴紀は紙をそっと抜き取り、メモ帳をポケットに滑らせる。
(……朱音、ごめん)
(お前の晴れを壊したのは俺だ。全部わかってる) (でも──こうしないと、うちの店は本当に潰れる。親父も、職人も、みんな巻き込んで)喉が焼けるほど痛む。
(……それに。あの家と組むなら……朱音、お前の方がきっと、巻き込まれる)
誰にも聞こえない、乾いた言葉が胸の奥で響いた。
(守りたかったのに)
(選んだのは……最低な方だった)外に出ると、湿った風がまとわりついた。 晴紀はスーツのポケットに手を入れたまま、気づけば歩いていた。 行き先を決めた覚えはない。 ただ、足が勝手に動いた。 夏の光が真上から降り注ぐ朝の街。 ビルの影が濃く落ち、蝉の声が遠くで震えている。 そして角を曲がったとき── 焙煎の香りがふっと鼻をかすめた。(……ブルーオーク?) 考えるより先に、扉を押していた。 空いていた窓際の席に腰を下ろし、紙カップを両手で包んだ。 温度よりも、手に触れている何かが欲しかった。 店内の焙煎の香りに触れていると、 胸の奥でひとつだけ、半年前の記憶が静かに揺れた。(……あの時も、ここに来た) 鬼塚の初案を伝えようとして、朱音を探し回って—— 最後にたどり着いたのが、この店だった。 朱音は迷わず言った。『それはあなたからは受け取らない。 でも……店は見せて』 そのまま二人で京都へ向かった。 職人の手元と、店の温度と、あの日の朱音の横顔がいまも焼きついている。(あの時、初めて思ったんだ)(……彼女なら、清晴堂の未来を作れるかもしれないって) その微かな光が胸の奥でまた灯りかけたとき、店の扉が開く音がした。 ふと視線を上げると──その光の中に、朱音の姿があった。(……え?) 紙カップを買うでもなく、ただ入口で店内を見渡すように立っている。 驚きより先に、晴紀の心臓だけが瞬間的に跳ねた。 こちらの視線に気づいたのか、朱音がゆっくりと顔を向ける。 目が合った瞬間、ほんの一秒だけ、時計の針が止まったように空気が静まった。 晴紀は息を吸うことさえ忘れていた。「……朱音」 それ以上、説明も言い訳も、何も出てこない。 ただ、この店に足を向けてしまった理由がひとつだけ確かになった。(……会うべきだったんだ) 朱音はわずかに目を瞬かせてから、歩み寄り、静かに言った。「……偶然ね」 でも、その声の奥には── ほんのわずかに、未来の気配が揺れていた。*** その日の午後、胸の奥で微かな風向きの変化を感じていた。 理由は分からない。 ただ、何かがそっと未来の方へ転がり始めたような予感だけが残っていた。 角を曲がったとき、焙煎の香りがふわりと頬をかすめた。 気づけば私は、その香りに導かれるようにブルーオークの扉を押していた。
——それから、数週間後。 会議室の空気は、わずかに張りつめていた。「夏の導線がうまく伸びていない。……このままでは頓挫する気がします」 悠斗のひと言に、会議室の温度がわずかに下がる。 晴紀が顔を上げ、鬼塚はゆっくりうなずいた。(やっと……核心に触れたか) 季節導線の第一弾は成功した。 客足は三割増、SNSの温度も高かった。 ──だが、それは春の話だ。 一週間前に始めた夏の導線は、思うように動かない。 来客数は横ばい、SNSの拡散も鈍い。 数字の立ち上がりが、明らかに弱かった。「期待ほどの上がり方ではない」 悠斗は資料を閉じた。「導線の核が……まだ動いていない感じがします」 晴紀も小さく息を吸う。「俺も……そう思ってた」 鬼塚が口を開く。「三人とも感じているはずだ。誰の設計に乗っているかを」 沈黙。 目を逸らす者は誰もいない。 もう全員、答えを知っていたからだ。 鬼塚はゆっくり言葉を置いた。「──朝倉朱音だ」 晴紀の喉が、かすかに震えた。 悠斗も息を呑み、手元の資料を握り直す。 鬼塚は続ける。「季節導線の骨格も、物語としての挑戦も。 すべて最初の企画会議で、彼女が提示した視点だ」 悠斗が視線を落とす。「でも……言えませんでした。これ以上、神園家との摩擦が広がれば……」 鬼塚は静かに首を振った。「皆、分かっていた。ただ、触れないという選択をしていただけだ」 会議室の空気が、ひとつ重い音を立てて沈む。 鬼塚はロードマップを見つめながら、淡々と告げた。「夏・夏・秋・冬。あの四季の軸は、本人しか深められない。 どれだけ優秀な担当者がいても、翻訳者がいなければブランドは折れる」 晴紀がゆっくり顔を上げた。「つまり……」 鬼塚は短く言う。「──呼ぶべき人間は、ひとりだ」 悠斗も小さく頷いた。「……朝倉朱音」「だから外部から答えとして出せるのはここまでだ。最終判断は——経営トップの仕事だ」 二人の視線が、晴紀へ向いた。 鬼塚と悠斗の言葉が、晴紀の胸にじわじわ残響していた。 彼らは、真実だけを言った。 逃げ場のない、正しい言葉だった。 だがその先にあるもうひとつの現実を、晴紀もまた知っていた。(朱音を呼べば……炎上リスクが跳ね上がる)(なにより、神園家はきっと手を引く。 支援がな
朝なのに、もう一度眠りに落ちてしまって、 体だけが先に目を覚ましたみたいだった。 布団の重さと、すぐそばの体温だけが、はっきりしている。 意識はまだ水の底に沈んだまま、呼吸だけを整えていると、 背後から、そっと腕が回された。「……朱音、起きてる?」 耳元に落ちる声は低くて、 朝一番の空気を含んだ、やわらかい甘さがあった。「ん……まだ……」 自分でも驚くほど、素直な返事だった。「いいのよ。あなたの無防備な寝顔は可愛いわ」 首筋に、息がかかる。 その熱に反応して、無意識に肩がすくんだ。 逃げるより先に、 この距離が当たり前になっていることに気づいてしまう。「ねぇ、朱音」「……なに?」「閑職、そろそろ飽きたんじゃない?」「え……?」 寝起きの頭が、一瞬で覚める。 Dはゆっくり身体を起こし、かき上げた髪の隙間から光が落ちた。 横顔だけじゃない。 頬のラインも、まつ毛も、喉元の影までもが、朝の光に溶けるように整っている。 美しいじゃ足りない。 近づくほど輪郭が崩れず、むしろ完成してしまうタイプの美しさだった。 それを見ているだけで、 身体の内側が、静かに熱を持つ。「今、少しずつ働きかけてるわ。あなたの部署」「働きかけ……?」「ええ。あなたが前のように仕事に復帰できるように、内部を動かしてるの」 言葉は淡々としているのに、胸の奥が一気に熱くなる。「……ありがとう」 自然と指がDの腕に触れていた。 感謝と、救われたような気持ちが同時にこみ上げる。(やっと、戻れる……?) そう思った瞬間、胸の奥がほっと緩んだ。 けれどDは、そこで一度視線を伏せ—— すぐに、別の温度を帯びた声で言った。「そういえば、清晴堂の夏の導線。あまりうまくいってないみたいね」「……え?」 脳が一拍置いて動く。(なんで……Dがそんなことを?)「鬼塚から聞いたわ」 胸の奥が、変なふうにざわついた。(もう……忘れたつもりだったのに)(関係ないはずなのに) 気になってしまう自分が、いちばん腹立たしい。「あなたに関係ない話よね?」 Dはわざと軽い調子で言った。 でも、その目だけは私の微かな揺れを逃さずに見つめていた。(試されている) 心の奥に沈んでいた火種が、わずかに息を吹き返すのを自覚してしまう。(気になる……
照明を落とした部屋は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。 カーテンの向こうの街の気配は遠くて、ここには私とDの呼吸しかない。 Dは私をベッドに導いたけれど、すぐには横にならなかった。 シーツを整え、枕の位置を直し、それから私を見る。「……無理はしないで」 その言葉が、胸の奥にやさしく沈む。「無理してないわ」 強がりじゃない。 本当に、そうだった。 Dは小さく笑って、私の隣に腰を下ろす。 触れたのは、手首だけ。 脈を確かめるみたいに、指先がそっと添えられる。「そうね。ちゃんと、生きてる顔してる」「どういう意味?」「壊れてる人は、もっと静かよ」 そのまま、Dは私の手を引いた。 キスは、すぐじゃない。 額に。 こめかみに。 頬に。 じらすみたいに、でも乱さない。 そして、ようやく唇に触れた。 深くない、確かめるだけのキス。 私は目を閉じて、それを受け取る。 拒まない。 でも、急がない。 Dの手が背中に回り、服の上からなぞる。 押さえつけるでも、引き寄せるでもない。 ——ここにいていい。 そう言われているみたいな触れ方。「……今日のあなた、綺麗ね」 一瞬、息が止まる。「……あなたのおかげでしょ」 自分でも驚くほど、素直な声だった。 Dは一瞬だけ言葉を失って、それから、いつもより少しだけ近づいた。「そう言われるの、弱いのよ」 唇が重なる。 今度は、さっきより深い。 舌が触れて、息が混じって、思考が溶けていく。 Dの手が服の端にかかり、ためらいなく引き上げた。 肌に触れた瞬間、細い息が漏れる。「あ……」 恥ずかしさより、安心の方が勝っていた。(ああ……Dには、いつも甘く溶かされてしまう) Dの指は、ちゃんと私の反応を待つ。 早すぎない。 でも、逃がさない。「ね、朱音」 顎に指をかけられて、視線が合う。「これは、逃げ?」 私は迷わず首を振った。「違う。……私は、ここに来たかった」 Dはそれ以上、何も言わなかった。 ただ、ゆっくりと、深く、口づける。 触れ合うたびに、呼吸が乱れていく。 身体が熱を思い出して、考えることをやめていく。 Dの手が腰に落ちて、引き寄せられる。 密着した体温が、はっきりと「選んだ現実」を教えてくる。「声、我慢しなくていい」 低
「…………なん、ですって?」 いずみの声が一段落ちる。 店に出入りする人のざわめきよりも冷たい。 晴紀が淡々と続けた。「春の導線を動かしたのは、朱音の骨格だ。 鬼塚さんも認めていた」 いずみの視線が、ゆっくりと私に向く。 その目の奥で、何かが静かに裂ける音がした。「……許せないわ」 囁くような声なのに、背筋が凍るほど鋭い。「だって——」 いずみは一歩、私のほうへ踏み出した。 唇だけ笑って、目はまったく笑っていない。「清晴堂は私が救うのよ? あなたみたいな人に……横から奪われるなんて」 胸の奥がひゅっと縮む。 いずみは笑顔の皮だけを残して、感情を押し殺すように続けた。「なのに。 どうしてあなたなの? どうしてあなたの案なの?」 最後は、吐き出すように。「……許せない。許せるわけが、ないわ」 いずみの言葉が落ちた瞬間だった。 隣で、晴紀の表情がぐっと歪んだ。 怒りとも、悔しさともつかない、見たことのない陰の影。「いずみ、言い方が——」「事実を言っただけよ? ……ねぇ、朱音さん?」 あの焦げるような視線がこちらに向いた。 胸の奥で、何かがきしんだ。(……もう、ここにいてはいけない) その確信だけが、静かに落ちた。「ごめんなさい。 私は……これで」 晴紀が一歩、こちらに伸ばした。「朱音、待って——」 その声は、ほんの少しだけ掠れていた。 なのに、私の足は止まらなかった。 誰の視線も受け止められない。 誰のためにも、ここに立っていられない。 ガラス扉の外で、冷たい空気が肌を撫でた。 春の匂いは確かにそこにあるのに、 胸の奥はまだ、冬みたいに冷たかった。 そのまま私は、 出入りする人の流れに紛れるようにして、 背を向けた。(……来るべきじゃなかった。 私の居場所じゃないのに) そう思えば思うほど、 足取りは早く、乱れていく。(忘れた方がいい。 名前のないまま、そっと離れた方が) 自分に言い聞かせているだけだと、 どこかでわかっていた。 背中の遠くで、 晴紀が私の名を呼ぶ声が、確かに揺れた。 でも——振り返ったら崩れそうで。 私は、その声を振り切るように歩き続けた。*** 人の流れを抜けた途端、胸の奥がぐらりと揺れた。 気づけば、Dの名前を選んでいた。「……
【清晴堂、来客数回復の兆し 春の導線、職人映像がSNSで拡散中】 季節が、いつの間にか冬から春へ移っていた。 記事を閉じても、薄桜色の売り場写真が胸の奥にざわめきを残す。(……春、動き始めたんだ) 動画を開いた瞬間、心臓がかすかに跳ねた。 桜色の包み、並び順、光の当て方──(……これ、私が提案した「季節の骨格」がそのまま使われてる) けれど次の瞬間、指が止まる。(でも……あれ? ここは私の案と違う) 春菓子の背に、小さな余白の棚。 光の角度で桜影がふっと浮く。(こんなの……思いつかなかった)(……さすが、鬼塚さんだ) ページを閉じても、その棚だけが目に焼きついた。(……少しだけ。ほんの少しだけ、本物を見にいきたい) 本当に、ただそれだけのつもりだった。 でも、会社の出口を出たときには、 足が自然と清晴堂の方向へ向かっていた。(見つからないように。 ただ……企画の現場を見たいだけ)*** 翌朝。 春の空気はまだ冷たくて、 それが逆に胸を落ち着かせた。(……見に行くだけ。入らないから) 自分に言い訳しながら、 私は人の少ない開店すぐの時間に清晴堂へ向かった。 正面入口には近づかない。 観光客が流れ込む前に、建物脇へそっと回り込む。 ガラス越しに見える春の売り場。 桜色の包み、光の落ち方、職人の手元の動画モニター。(……映像で見るより、ずっと綺麗) 胸がひりつく。 自分の企画の骨格がそこにあるのに、 自分だけがこの場所の外側にいる。(……入れない。炎上したの、私なんだから) ガラスに手を触れるのも怖くて、 ただ少し離れた場所から見守るように立っていた。 そのとき──「……朱音?」 背後から、慎重に落とされた声。 振り返ると、 晴紀が買い出しの箱を抱えたまま、目を見開いていた。「なんで……外に?」「見に来ただけよ。外から……また炎上すると困るから」 そう言うと、晴紀の肩がかすかに沈んだ。「そうか」 しばらく黙っていた晴紀は、 ガラス越しの売り場を一緒に見るように立った。「朱音の企画……すごく良かったよ。新しいお客さんがたくさん来てくれてる」「……そう」「元は朱音の案だ。本当に、ありがとう」 その言葉が胸に刺さった。 そんなこと、言われたくなかったのに。 その瞬間─







